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東京地方裁判所 昭和31年(ワ)115号 判決

原告 徳田いき

被告 今野梓 外二名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「(一)被告今野梓及び同斎藤徳郎は原告に対し、東京都港区芝桜田備前町二十四番地所在、家屋番号同町二十四番、木造亜鉛葺三階建店舗一棟、建坪十一坪三合三勺二階十一坪三合三勺ほか三階七坪(以上実測による。)を明け渡し、かつ、各自昭和三十年十一月一日から右明渡ずみまで一箇月金一万八千五百円の割合による金員を支払え。(二)被告株式会社熊谷商会は原告に対し、右建物の一階十一坪三合三勺を明け渡せ。(三)訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決及び担保を条件とする仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

一、原告の亡夫訴外徳田熊太郎は、昭和十二年中その所有にかかる請求の趣旨(一)に記載の建物(以下本件建物という。)を被告今野梓に対し、期間の定なく賃貸したところ、原告は、昭和十六年七月十六日訴外徳田熊太郎から本件建物の所有権を売買により取得し、同人の被告今野梓に対する右賃貸借契約に基く賃貸人としての権利義務を承継した。

二、被告今野梓は、原告の承諾を得ないで昭和二十一年中本件建物を被告斎藤徳郎に転貸したので、原告は、被告今野梓及び同斎藤徳郎を相手方として本件建物の明渡を求めるため、昭和二十二年十一月二十四日附で東京簡易裁判所に申し立てた調停の申立書により、原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約を右転貸を理由に解除する旨の意思表示を発し、右申立書はその頃被告今野梓に送達されたから、右賃貸借契約はここに解除されるに至つた。

三、仮に右により賃貸借契約の解除されたことが認められないとしても、被告今野梓は、昭和二十九年九月十五日本件建物の一階十一坪三合三勺を被告株式会社熊谷商会に原告の承諾なく転貸したので、原告は、本件訴状により原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約を解除する旨の意思表示を発し、右訴状は昭和三十一年一月三十一日被告今野梓に送達されたから、右賃貸借契約は同日限り解除されるに至つた。

四、仮に右により賃貸借契約の解除されたことも認められないとしても、原告は、本件訴状により原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約について解約の申入をしたのであるが、原告は、既に七十歳を越える老齢に達し、戦死した息子の妻子と三人で肩書地に借家住いをしているところ、その賃貸人である訴外鈴木浪之助から右建物の明渡を強硬に請求されているため、本件建物において適当な商売でも始めて生計を立てなければならない実情にあり、本件建物を自ら使用することを必要とするものであつて、右解約の申入は正当な事由に基くのである。従つて原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約は本件訴状による解約の申入が被告今野梓に到達した昭和三十一年一月三十一日から六箇月を経過するとともに終了すべきものである。

五、被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会は、いずれも原告に対抗し得る権原なく、被告斎藤徳郎は本件建物全部を昭和二十一年中から、被告株式会社熊谷商会は本件建物の一階十一坪三合三勺を昭和二十九年九月十五日から占有して原告の本件建物に対する所有権を侵害しているのである。

六、そこで原告は、被告今野梓に対して賃貸借契約の終了を理由に本件建物の明渡(但し、解約申入による賃貸借契約の終了を原因とする場合には昭和三十一年八月一日限り明渡)及び昭和三十年十一月一日から右明渡ずみまで本件建物の相当賃料額である一箇月金一万八千五百円と同額の右明渡義務不履行による損害金の支払(但し、前掲三及び四の場合には、各場合における賃貸借契約終了の日以後における損害金の支払)を、被告斎藤徳郎に対して所有権侵害を理由に本件建物の明渡及び右侵害開始の後である昭和三十一年十一月一日から右明渡ずみまで本件建物の相当賃料額一箇月金一万八千五百円と同額の損害金の支払を、被告株式会社熊谷商会に対して所有権侵害を理由に本件建物の一階十一坪三合三勺の明渡を請求するものである。

と述べ、

被告等の主張に対し、原告と被告今野梓との合意により本件建物の賃料が昭和三十年一月分以降について一箇月金一万八千五百円に増額されたことは認めるが、その余の事実は争う。と述べた。〈証拠省略〉

一、原告主張事実中、(一)本件建物がもと原告の亡夫訴外徳田熊太郎の所有に属し、被告今野梓が同人から昭和十二年中本件建物を期間の定なく賃借したこと、(二)原告が訴外徳田熊太郎から原告主張のごとく売買により本件建物の所有権を取得し、訴外徳田熊太郎の被告今野梓に対する右賃貸借契約に基く賃貸人としての権利義務を承継したこと、(三)原告から被告今野梓に対し原告主張のような賃貸借契約の解除又は解約の意思表示が到達したこと、(四)被告今野梓が本件建物を前述の賃借以来引続き占有しており、被告斎藤徳郎が本件建物全部を、被告株式会社熊谷商会がその一階十一坪三合三勺を使用していること(但し、右使用が独立の占有に当らないことは後述するとおりである。なお、右使用開始の時期についても後述する。)(五)本件建物の相当賃料額が原告の主張するとおりであることは認めるが、その余は争う。

二、(一) 被告斎藤徳郎が本件建物を、被告株式会社熊谷商会がその一階を使用していることは、前述したとおりであるが、それは左記のような事情に基くものであつて、右被告両名において被告今野梓と独立にその占有をしているものではなく、従つて右使用をもつて本件建物の全部又は一部を転借したものとはいえないのである。

そもそも被告今野梓は、訴外徳田熊太郎から本件建物を賃借して以来、本件建物において熊谷商会なる商号により自動車及び機械部品の販売及び修理業を営んでいたものであつて、被告斎藤徳郎は、当時よりその支配人として本件建物に被告今野梓と同居してその業務に従事していたのである。その後昭和二十九年九月十五日被告株式会社熊谷商会が設立され、被告斎藤徳郎はその代表取締役に就任したのであるが、被告株式会社熊谷商会は、従前被告今野梓の経営していた前記営業を会社組織で運営するために設立されたものである。してみると前記熊谷商会の支配人としてまたは被告株式会社の代表取締役として被告斎藤徳郎が本件建物を使用して来たのはもちろん、被告株式会社熊谷商会がその設立以来本件建物の一階をその本店として使用するに至つたからといつて、上述のような経緯にかんがみるときは、被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会は、本件建物に独立の占有を取得したものというべきではなく、単に本件建物の賃借人である被告今野梓の賃借権に基きその範囲内において本件建物を事実上使用しているに過ぎないものとみるべきである。

(二) 仮に被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会が前述のとおり本件建物を使用するに至つたことが被告今野梓との間の転貸借契約に基くものであると解されるとしても、(イ)原告は、被告今野梓に対し昭和三十年一月分からの本件建物の賃料を一箇月金一万八千五百円に増額する旨請求し、以来被告今野梓からその額により賃料の支払を受けており、しかも当時原告は、被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会も本件建物を使用していることを熟知していながらこれについて何等異議を述べるところがなかつたのであるから、少くともこの時において被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会が本件建物を使用することを暗黙のうちに承諾したものとみるべきである。(ロ)仮に右黙示の承諾のあつたことが認められないとしても、被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会が本件建物を使用するに至つた経緯及びその使用の状況からいつて、本件建物の賃借人である被告今野梓が被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会に本件建物を使用させたことをもつて賃貸人である原告に対して賃貸借契約解除の原因となるべき背信行為をあえてしたものとはなし難いのである。

(三) さすれば被告今野梓が本件建物を被告斎藤徳郎及び同株式会社熊谷商会に原告の承諾を得ないで転貸したことを理由として被告今野梓と原告との間における本件建物の賃貸借契約についてした解除の意思表示は、いずれにしてもその効力を生ずるに由ないものというべきである。

三、原告が被告今野梓に対してした賃貸借契約についての解約申入は正当の事由に基かないものである。原告は、解約申入の事由として原告が現在訴外鈴木浪之助から賃借して住居にあてている建物の明渡を請求されていることと本件建物において商売を始めることが原告の生活を維持する上に不可であることを主張しているのであるが、原告が訴外鈴木浪之助から建物の明渡請求を受けている点は両者が通謀して作為した疑が濃厚であるばかりでなく、原告の生計は被告今野梓から本件建物の賃料として支払われる一箇月金一万八千五百円の賃料の収入により優にこれを維持し得べく、特に本件建物において成否不確定の商売を始めなければならない事情は皆無である。これに反して被告今野梓は、本件建物を原告の亡夫から賃借して以来誠実に賃借人としての義務を尽くし、殊に戦時中空襲の際には危険を冒して本件建物の類焼を阻止したこともあり、被告今野梓の生活の根拠ともいうべき本件建物を原告に明け渡さなければならないとなれば他にこれに代るべき建物を見出すことは、現下の住宅事情からいつて至難のことに属するのである。従つて原告の被告今野梓に対する解約申入は無効である。と述べた。〈証拠省略〉

理由

一、被告今野梓に対する請求について。

(一)  原告の亡夫訴外徳田熊太郎が昭和十二年中その所有にかかる本件建物を被告今野梓に期間の定なく賃貸したことおよび原告が昭和十六年七月十六日訴外徳田熊太郎から売買により本件建物の所有権を取得するとともに同人の被告今野梓に対する本件建物の賃貸人としての権利義務を承継したことは、当事者間に争いがない。

(二)  そこで右のとおりにして原告と被告今野梓との間に存続せしめられることになつた本件建物についての賃貸借契約が既に終了するに至つたたかどうかについて考察する。

(イ)  まず最初に被告今野梓が原告の承諾を得ないで本件建物を被告斎藤徳郎に転貸したことを理由として右賃貸借契約が解除されたとする原告の主張についてであるが、原告が被告今野梓および同斎藤徳郎を相手方として本件建物の明渡を求めるため、昭和二十二年十一月二十四日附で東京簡易裁判所に申し立てた調停の申立書により、原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約を、被告今野梓において被告斎藤徳郎に本件建物を原告に無断で転貸したことを理由に解除する旨の意思表示を発し、右申立書がその頃被告今野梓に送達されたことは、当事者間に争いがないところ、被告斎藤徳郎が既にその以前から本件建物に被告今野梓と同居を続けていたことは、被告今野梓の認めるところであり、被告今野梓および同斎藤徳郎の各本人尋問の結果によると、被告斎藤徳郎は、昭和二十二年頃まず独りで本件建物に入居したが、その後半年位経つた頃家族六人を呼び寄せて爾来二階全部を住居に使用していることおよび被告今野梓の家族は、かねて疎開した盛岡市内に居住し、被告今野梓も家族の疎開先に滞在することが多いことが認められ、この認定を動かす証拠はない。上述したところからするときは、被告今野梓は、被告斎藤徳郎に本件建物を転貸してこれに居住させたものと解するのが相当である。被告今野梓は、被告斎藤徳郎は最初被告今野梓が熊谷商会なる商号により営んでいた自動車および機械部品の販売および修理業についての支配人として、その後右営業を会社組織により経営するために被告株式会社熊谷商会が設立されてからはその代表取締役として、被告今野梓が本件建物について有する賃借権に基きその範囲内において本件建物に被告今野梓と同居しているに過ぎず、これを転借したものではない旨抗争するのであるが、かかる事実を認めて叙上のごとく解することを妨げるべき資料は全く存しない。してみると原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約は、原告が被告今野梓に対してした前示解除の意思表示により解除されるに至つたものというべきである。

ところが被告今野梓は、原告が被告今野梓に対して昭和三十年一月分からの本件建物の賃料を一箇月金一万八千五百円に増額する旨請求し、爾来被告今野梓からその額により賃料の支払を受けて来たことをもつて、原告において被告今野梓が被告斎藤徳郎に本件建物を転貸したことを承諾した旨主張する。成立に争いのない乙第三号証ないし第五号証および被告今野梓の本人尋問の結果を総合するときは、上述にかかる原告が被告今野梓および同斎藤徳郎を相手方として東京簡易裁判所に申し立てた建物明渡請求の調停は、結局不調に終つたところ、その頃原告は、親戚の者を被告今野梓の許に寄越して、訴を提起すること等によりいたずらに紛争を続けることは好むところでないから、従来一箇月金九十円の約定の本件建物の賃料を一箇月金五千円に増額して支払つてもらいたいと提案するところがあつたので、被告今野梓はこれを承諾したこと、その後も本件建物の賃料は、原告の申出に応じて逐次増額され、昭和三十年一月一日以降の賃料額については一箇月金一万八千五百円に増額することに原告と被告今野梓との間に約定が成立し(この点は当事者間に争いのないところである。)、原告は、昭和三十年三月頃までは被告今野梓から何等の異議もなく本件建物の賃料の支払を受領していたことを認めることができ、この認定を覆す証拠はない。右認定事実にかんがみるときは、原告は、被告今野梓および同斎藤徳郎に対して本件建物の明渡を請求して紛争を続けるよりは、既に行使した解除権を遡つて放棄しまたは一旦発生した解除の効力を消滅させ、被告今野梓に対して賃料を増額の上本件建物を同被告および被告斎藤徳郎に引き続き使用収益させるにしかないとして上述のような処置に出たものというべきである。

さすれば、原告と被告今野梓との間の本件建物についての賃貸借契約は、被告今野梓が本件建物を被告斎藤徳郎に対し原告に無断で転貸したことを理由として一旦は解除されたけれども、原告の意思により再び継続されたものというべく、従つて原告と被告今野梓との間における本件建物の賃貸借契約が現に右解除により終了していることを原因とする被告今野梓に対する原告の請求は失当であるといわなければならない。

(ロ)  つぎに被告今野梓が原告の承諾を得ないで本件建物の一階十一坪三合三勺を被告株式会社熊谷商会に転貸したことを理由として本件建物に関する原告と被告今野梓との間の賃貸借契約が解除されたという原告の主張についてであるが、被告株式会社熊谷商会が昭和二十九年九月十五日以来本件建物の一階を使用していることは、被告今野梓の認めるところであるので、特別の事情のない限り、被告今野梓は本件建物の一階を被告株式会社熊谷商会に転貸したものというべきである。

ところが被告今野梓は、被告株式会社熊谷商会は、従前被告今野梓が個人で営んでいた自動車および機械部品の販売および修理業を会社組織で経営することにするために設立されたに過ぎないものであるとして、被告株式会社熊谷商会は、被告今野梓の本件建物に対する賃借権に基いてその一階を事実上使用しているに止まるものであると抗争する。なるほど被告今野梓の本人尋問の結果によると、被告株式会社熊谷商会は、被告今野梓の右において主張しているような経緯により主として税金の負担の軽減をはかる目的で設立されたものであつて、前記営業経営の実態にはその設立の前後において格段の相違はないことが認められるのである。しかしながらかように建物の賃借人が賃借建物において経営していた個人営業を会社組織による営業に転換した場合においては、たとえその前後を通じて経営の実態に本質的な変動の招来されたことがなかつたとしても、そもそも会社はその構成員なり経営の実権者なりとは離れて別個独立の人格を有するものであることが論のないところであることからいつて、会社がその構成員または経営の実権者の賃借物件を自らの用途に使用する関係は、これ等賃借人の賃借権に基く目的物件の事実上の使用収益とは異なり、そこにはこれとは別個に転貸借または賃借権の譲渡に基く独立の使用関係が設定されたものとみるべきである。

従つて被告今野梓の右主張は採用することができないのである。

ところで被告今野梓は、仮に同被告が本件建物の一階を被告株式会社熊谷商会に転貸したとしても、(1) 原告はその事実を知りながら被告今野梓に対して本件建物の賃料の増額を請求し、異議なくその賃料の支払を受けていたから右転貸を承諾したものであり、(2) 仮にその事実が認められないとしても右のごとき転貸は賃貸人に対する賃借人の背信行為にあたらないから、賃貸人による賃貸借契約解除の理由にはなり得ないと主張する。(1) の主張については、原告において賃料の増額請求をなし、その賃料を受領していたことは、先にも述べたとおりであるが、そのことによつて原告が被告今野梓の被告株式会社熊谷商会に対する転貸を承諾したものと認めるべき証拠は存しないので、これを排斥せざるを得ないのであるが、(2) の主張は肯認されるべきである。けだし民法第六百十二条が賃借人の無断転貸または賃借権の譲渡を賃貸借契約解除の原因としたのは、賃貸借契約が本来当事者間の信頼関係の上に存続すべきものであることにかんがみ、右に掲げたような賃借人の独断行為は通常かかる信頼関係を裏切るものであると想定したことによるものと解すべきであるから、賃借人がかかる行為に出た場合においても、これにより賃貸人に対する信頼に背いたものとは認め得られないような特別の事情があるときには、賃貸人の契約解除権は自ら制限を受けるものと考えるべきである。これを本件についてみるに、被告今野梓が原告より賃借中の本件建物のうち一階を被告株式会社熊谷商会に原告の承諾を得ることなく転貸したことは、右に判示したとおりであるけれども、これにより被告今野梓が本件建物において個人営業をしていた当時に比して本件建物の使用状況に格別の変化がもたらされたものでないことは、上段認定の事実からしても明らかなところであり、その他被告今野梓が本件建物の一階を被告株式会社熊谷商会に使用収益させたことをもつて、原告に対する信頼関係を覆したものと認めるべき事情の存することを看取すべき事跡もないのである。

してみれば原告が、被告今野梓において本件建物の一階を被告株式会社熊谷商会に転貸したことを理由に本件訴状によつてした解除の意思表示はその効力を生ずるに由ないものというべく、従つてその解除により原告と被告今野梓との間の賃貸借契約が終了したことを原因とする原告の被告今野梓に対する請求は認容する限りでないものとせざるを得ないのである。

(ハ)  最後に原告が本件訴状によつてした解約申入について正当な事由が存するかどうかについて判断する。成立に争いのない甲第三号証の一、二ならびに証人鈴木浪之助の証言および原告の本人尋問の結果によると、原告は、訴外鈴木浪之助から賃借して現在その住居に使用している建物について訴外鈴木浪之助からかねてより明渡を請求されていたところ、昭和三十年十月三十一日附の書留内容証明郵便をもつて自己使用の必要があることを理由として解約の申入を受けたこと、原告は、そのため訴外鈴木浪之助から相当嫌がらせの言動を受け困惑していることおよび訴外鈴木浪之助が原告に対する解約申入の理由としてその賃貸建物を自ら使用する必要があるというのは、同人において質屋営業の店舗兼住居に使用している建物がその三室のうち一室を倉庫建築のため取り壊わしたため手狭になつたので、原告に賃貸中の建物を必要とすることになつたというにあることが認められるのである。しかしながら訴外浪之助が原告に対して右建物の明渡を請求するため、訴の提起その他の法的手段に出たものでないことは、本件弁論の全越旨からみてこれを窺い知るに足りるのである。ところで建物の所有者がその所有建物を他に賃貸して自らは第三者から賃借した建物に居住している場合において、その居住建物の明渡を賃貸人から請求されるに至つたことを理由に、その所有建物の賃借人に対してこれが自己使用の必要があるとして解約の申入をなし得るためには、自らの賃借建物の明渡に関して賃貸人から訴を提起されたとかその他の強制方法に訴えられたことをまで必要とするものでないことは論のないところであるが、少くともその明渡請求が法律的に理由あるものと認められるかまたはその点はしばらく措くとしても事実上その請求に応ぜざるを得ない特別の事情があり、しかもその結果自らの所有建物の賃借人をしてその賃借建物を明け渡させることが社会通念上やむを得ないものと思料させるに十分な理由が存することを要するものというべきである。これを本件について考えるに、訴外鈴木浪之助の原告に対する建物明渡請求の理由とするところは上述したとおりであるが、原告は、夫に死別したほか長男も戦死し、長男の妻子二人と三人暮しで、被告今野梓から支払われる本件建物の賃料一箇月金一万八千五百円のほか長男の妻の内職による一箇月金二、三千円の収入と長男が戦死したことによるわずかな遺族扶助料とによつて生活を維持しているのに反して、訴外鈴木浪之助は原告に賃貸中の建物以外にも相当な家作を所有し、現在の住居が狭いとはいえ家族は三人に過ぎないことが、原告の本人尋問の結果および証人鈴木浪之助の証言によつて認められるのである。これによつてこれをみれば訴外鈴木浪之助の原告に対する前記建物明渡請求は、しかく簡単に認容されるかどうかについて疑の余地なしとしないのであるが、この点はともかくとして原告が訴外鈴木浪之助から建物明渡の請求を受けて老齢の女の身として不安に駆られ困惑していることは、上述のところから察するに余りあるものというべく、その所有にかかる本件建物の明渡を受けてこれに移転したいというのも一応は無理もないことと考えられるのであるが、ひるがえつて被告今野梓の側における事情を調べてみるに、同被告および被告斎藤徳郎の各本人尋問の結果によると、本件建物の一階は、もと被告今野梓が個人で経営していた営業を実質上継承し、同被告の義弟である被告斎藤徳郎が代表取締役を、被告今野梓の長男である訴外今野文夫ほか一名が取締役をしている被告株式会社熊谷商会において営業所として使用し、二階には被告斎藤徳郎がその家族とともに、三階には被告今野梓がその長男である訴外今野文夫および被告株式会社熊谷商会の雇人とともに居住していること、被告今野梓は妻子の疎開先である盛岡市に滞在し勝ちであるが、いずれそこを引き揚げて本件建物に家族全員で居住しようとしていること、被告株式会社熊谷商会の営業である自動車および機械部品の販売および修理業は、その営業所の所在場所に重要な関係があり、被告今野梓の個人経営当時から長く本件建物において営業を続けている関係上本件建物から離れることは業務上多大の不利益を招くおそれのあることおよび被告今野梓は原告から賃料増額の請求がある都度可能な範囲においてその請求に応じ、原告が昭和三十年四月頃本件建物の明渡を請求するため東京簡易裁判所に再度調停の申立をして賃料の受領を拒絶するに至るまでは滞りなく賃料の支払を続けていたことが認められるのである。叙上諸般の事情を彼此合わせ考えるときは、原告は被告今野梓に対して本件建物の賃貸借契約について解約の申入をするについて正当の事由を有するものとは解し難く、そのしかる以上はこれにより右賃貸借契約を終了させることはできないものと断ずべきである。

さらに被告今野梓は、上述のとおり被告斎藤徳郎に本件建物全部を、被告株式会社熊谷商会に本件建物の一階をいずれも原告に無断で転貸したものではあるが、前者の転貸については後に原告において承諾を与えたものであり、後者の転貸も被告今野梓の原告に対する背信行為と認められないことは先に説明したとおりであることからいつて、右のごとき無断転貸の行われたことを考慮の中に入れたとしても、原告の解約申入がその効力を生じないものとする前示結論にはいささかの消長をも及ぼすものではないといわなければならない。なおまた原告は、本件建物において適当な商売を始めでもしなければその生計を維持する方法がない旨主張するのであるが、原告の収入の状況については、前述したとおり本件建物の賃料として被告今野梓から支払われる金額と長男の妻の内職による収入とを合わせた約二万円余のほか遺族扶助料若干があるのに対して、税金、家賃(証人鈴木浪之助の証言によると一箇月金千三百円である。)および保険料等を除いて一箇月一万五千円位あれば生活費は足りることが原告本人尋問の結果により認められ、しかも原告は本件建物で商売を始めるといいながら、その本人尋問の結果によればまだ何等の具体案も持ち合せていないことが知り得られるところからいつて、原告の前記主張も本件建物の賃貸借契約についての解約申入に関する正当の事由として斟酌するに由ないものといわなければならない。

しからば原告が被告今野梓に対してした解約の申入により本件建物の賃貸借契約が六箇月後に終了すべきことを前提とする原告の今野梓に対する請求もまた理由がないものといわなければならない。

二、被告斎藤徳郎および同株式会社熊谷商会に対する請求について。

(一)  本件建物が原告の所有に属し、被告斎藤徳郎が本件建物全部を、被告株式会社熊谷商会が本件建物の一階十一坪三合三勺を使用していることは、当事者間に争いがないところ、右被告等の使用が本件建物の賃借人である被告今野梓との転貸借契約に基く独立の占有にあたるものであつて、被告今野梓の本件建物に対する賃借権に基く事実上の使用に止まるものとは認め得ないものであることは、既に前出一の(二)の(イ)および(ロ)において詳述したとおりである。

(二)  そこで被告斎藤徳郎および同株式会社熊谷商会が右のごとく本件建物を占有するにつき原告に対抗し得る権原を有するかどうかについて考えるに、この点も右に指摘した箇所において論述したところであるが、被告斎藤徳郎は、結局原告の承諾を得て被告今野梓から本件建物を転借して占有しているものであり、被告株式会社熊谷商会は本件建物の一階の転借について原告の承諾を得たわけではないが、原告はその転貸借を理由に本件建物の賃借人である被告今野梓に対して賃貸借契約を解除することを許されないものであり、かかる場合においては転借人は、転貸借に賃貸人の承諾があつた場合と同じように賃貸人に対する関係においても適法にその目的物の占有をなし得るものと解すべきである。何となれば転貸借契約に関する賃貸人の承諾は、転貸借契約の賃貸人に対する違法性を阻却し、これに基く転借権を賃貸人にも対抗することを得させるべきものであるから、賃貸人が転貸借契約の違法であることを主張して賃借人(転貸人)に対し賃貸借契約の解除をなし得ない場合と転貸借契約につき賃貸人の承諾が与えられた場合とにおいて、転借人の転借物に対する占有の賃貸人に対する適否の問題に関してこれを異別に取り扱わなければならない根拠はないものと解すべきであるからである。さすれば被告斎藤徳郎および同株式会社熊谷商会の本件建物に対する占有は原告に対しても適法なものというべきである。

(三)  しからば被告斎藤徳郎および同株式会社熊谷商会が不法に本件建物を占有して原告の本件建物に対する所有権を侵害していることを原因とする原告の同被告等に対する請求は理由のないことが明らかである。

三、結論

叙上のとおり原告の本訴請求はすべて正当でないのでこれを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 桑原正憲)

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